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想い出・未来エピソード

2022年10月1日に50周年を迎えた『名古屋市⺠会館(日本特殊陶業市⺠会館)』にまつわる、個人的な想い出や、これからの希望や夢などのエピソードを募集しました。 募集要項はこちら

想い出・未来エピソードの公開にあたって

記録と記憶。いただいたエピソードを拝見して感じた言葉です。

市⺠会館として、いつどんな催事が実施されたかという記録は残ってはいますが、その先にある想い出つまり記憶までたどり着くことは難し く、50年間の来場者の数以上、存在するのではないかと思います。

今回のエピソード募集にあたり、数ある記憶の中の少しかもしれませんが、市⺠会館の記憶に触れることができたことは財産だと感じておりま す。いい想い出だけではなく、悪い想い出もあるかもしれません。ただ少なくともお越しいただいた皆様にはできる限りいい想い出をもってお 帰り頂くことも市⺠会館の役割の一つであることを改めて感じ取ることができました。

エピソードをいただいた方々には感謝を述べるとともに、更にいい想い出を増やしていただき、またお聞かせいただけると嬉しいです。 この先、たくさんの素敵なエピソードが生まれる事を期待し、皆様のご来館を心よりお待ちしております。 

日本特殊陶業市⺠会館 館⻑ 木村 寛

パネル展

最優秀賞・優秀賞・SNS賞の作品を展示します。

  • 会場:市民会館1Fロビー
  • 期間:10月1日(土)~2023年3月末 ※予定

エピソード集

ご応募いただいたエピソードを冊子にまとめました。

配布場所:市民会館1Fロビー ※なくなり次第終了

最優秀賞「あの日の言葉」Y.K

忘れもしない16年前。やっと手にした初任給で『ULFULS 2006 TOUR you』のチケットを買った。すべては母のため。がんで苦しむ母を元気づけるため。

「えーうれしい!S席だわ」

チケットを見た母は目を潤ませた。「最期のコンサート」だとも言った。しかし母はその日を迎えることなく、無念にもコンサート一週間前に亡くなった。まさか、とどうしてが入り交じる。残されたチケットを手に私は途方に暮れた。行きたい場所。食べさせたいもの。山ほど、あった。何より大好きなウルフルズに会わせてあげたかった。

それなのに。

コンサート当日。私の姿は名古屋にあった。新幹線と電車を乗り継いで金山駅に向かう。乗車券は二人分。せめて『母』を近くに感じたい。ただそれだけだった。

名古屋市⺠会館についても私のひとり言はとまらない。グッズ売り場でも「お母さん、どの色のペンライトがいい?」と言って、店員を困らせた。おそらく周囲は私を数奇な目で見ただろう。だけどそんなものはどうでも良かった。私と母さえ良ければ、それで。

しかし、である。入場ゲートでチケットを見せた時だ。二人分のチケットに係員が不思議そうに「お連れ様はどちらですか」と言った。お連れ様。ああ、母はいないんだな。そう思った。私が口をつぐんでいると、後方で「いないなら誰かに譲ればいいのに」という声がした。場外では『チケット譲って』と書かれたボードを手にするファンもいる。私は戶惑い、焦り、悩んだ末に、「すみません。母と来たくて二枚買ったんです。でも、お母さん、死んじゃって」と泣きじゃくった。哀しくて、悔しくて、どうにもならなかった。すると係員は「失礼いたしました」と言いながら、「二名様ご来場です」とはっきり言った。

『二名様』

その言葉が耳ではなく、胸に響いた。確かに母はこの世にいない。だけどここにいなくても、心にいることを誰かが認めてくれたら。それを誰かが支えてくれたら。こんなに有り難いことはない。

お母さんはいるんだよ。

喜んでるんだよ。

きっと、今だって、本当は。

胸の奥でこみ上げる熱いものを、確かに、感じた。

あれからウルフルズのコンサートに五回行った。相変わらずチケットを二枚買う、ひとりよがりの親孝行だ。それでも入場ゲートを通るたび『二名様ご来場です』の声を思い出す。私を救い、励ましてくれたやさしさ。そんな彼を思うと『バンザイ!君に会えてよかった』のフレーズが、妙に胸に沁みて仕方ない。

優秀賞「縁のある場所」丹羽 修

想い出の場所と記憶に残る場所、忘れられない場所、それが全部同じだったりすると何か不思議な縁を感じませんか。私にとって日本特殊陶業市⺠会館はそんな場所です。

私の初めてのデートは名古屋市⺠会館でのフォークソングコンサートでした。金山駅で彼女と待ち合わせて、会場まで歩いていたとき緊張して会話しなかったのに、コンサートの後はその余韻もあってバンドの話で盛り上がったのを覚えています。昭和49年まだ高校生だったころの淡い⻘春の想い出です。

平成8年、勤続20年永年勤続表彰の会場も日本特殊陶業市⺠会館でした。高校卒業して就職、そして結婚、バブル期も重なり気がつけば、あっという間に過ぎた20年間でした。ひさしぶりに会う同期社員もい て、新人時代の思い出や近況報告に話もはずみ、定年まで頑張ろうと決めた記憶に残る場所です。

3年前に出場した津軽三味線名古屋大会の会場も日本特殊陶業市⺠会館でした。定年後は趣味を持った方がいいと書いてあった雑誌の記事に触発されて、55歳から始めた習い事でしたが10年続けた結果、団体の部に出場することになりました。大会の前日に自宅で練習をしていると、高校生の息子がアドバイスをしてくれました。中学生のとき合唱コンクールで市⺠会館の舞台に上がったことのある彼は市⺠会館の控室や舞台から見た客席の風景など自分の感じたことを思い出しながら話してくれました。そして「明日は緊張しないで演奏してね」と言われたとき、子どもの成⻑を感じ忘れられない日になりました。

振り返ってみると日本特殊陶業市⺠会館は私の人生の中で何かとお世話になった縁のある場所です。

私に限らずこの日本特殊陶業市⺠会館に足を運ばれたことのある人はたくさんいらっしゃると思います。その数だけ想い出もあるはずです。そしてそれを受けとめてきたこの会館にもたくさんの思いが詰まってる気がします。

多くの市⺠から親しまれて愛されていたからこそ、この会館が⻑きにわたって歴史を刻むことができたのでしょう。近年、名古屋にも大きなイベントのできる新しいホールもできました。それらと共存しつつ、市⺠会館は市⺠が気軽に利用できる身近な会館であり続けてほしいと思います。

優秀賞「聖地・フォレストホール」A.T

「聖地・フォレストホール」A.T

私が初めて名古屋市⺠会館を訪れたのは、名称がまだ中京大学文化市⺠会館だった頃だ。2011年、大学生になったばかりの私は、1枚のチケットを握りしめ、とあるグループをこの目で見るためやって来たのだった。

月日は流れ、私は一人の男性と出会い、2022年1月入籍をした。20代半ばを過ぎ、周囲の結婚ラッシュに焦りを感じていた時、友人に背中を押され登録した マッチングアプリ。そこで知り合った年上の男性と、 ありがたいことに入籍に至ったのだった。

出会いはコロナ禍の真っ只中。気軽に出掛けることができない中、私たちの仲を取り持ったのは、出会いのきっかけとなった「共通の趣味」だった。

「あのメンバーの卒業コンサートは行った?」

「あのコンサートの座席がめちゃくちゃ良くてさ、」

私たちの共通の趣味とは、アイドルの応援、もとい、「モーニング娘。およびハロー!プロジェクトのファン活動」なのであった。

モーニング娘。は女性アイドルグループだが、歌唱力とダンスに惚れているファンも多い。数多のステージで磨き上げたステージパフォーマンスが魅力のグ ループである。モーニング娘。を始めとするハロー!プロジェクトのグループは、年に4回、季節ごとにコンサートツアーを行い、全国を駆け巡っている。

名古屋公演でよく使用されるのが、日本特殊陶業市⺠会館だ。コンサートが頻繁に開催されることから、ファンの間では中野サンプラザをハロプロの聖地と呼ぶのだが、名古屋版ハロプロの聖地は「日本特殊陶業市⺠会館フォレストホール」だと私は思っている。

今まで何度、会場へ続く地下道を通ったことだろう。毎年毎年、春夏秋冬、どのツアーも欠かさず通う内に、大勢のファンが溜まる会場の雰囲気に四季を感じるようになった。コンサートの余韻に浸りながら電車を待つ金山駅のホームの、夏の湿った夜風も冬の凍える寒さも知っている。

私たちは出会う前から同じ会場に通っていた。だから、その景色も匂いも湿度も、おのずと共有ができた。そんなこんなで、私たちは意気投合し入籍に至った。

コロナ禍のため結婚式を行わない代わりに、フォトウェディングを撮影することとなった。せっかくなら思い出の地で撮影したいと考えたが、コロナ禍真っ只中に出会った私たちには、あいにく思い出の地というものがない。何かいいアイディアはないものか、二人で頭を悩ませていると、夫がピコーンとひらめいた。

「俺たちには、フォレストホールがある」

先日、フォトスタジオの方と一緒に会場の下見をした。まさか実現するわけがないと問い合わせメールを送信したのだが、スタッフの方々は快く引き受けてくださった。撮影は来年になりそうである。私たちの期待は膨らむばかりだ。私たち夫婦にとって日本特殊陶業市⺠会館は、他のハロプロファンとは一味違う、特別な場所になる予定だ。

優秀賞「今でも笑っていますか?」
五織鞠千代

「今でも笑っていますか?」福島 公子(雅号―五織鞠千代)

主人の転勤で、まったく土地感のない、この名古屋に昭和47年2月に来て、振り返ったら、もう50年。縁あって、高校生の頃から習いたかった詩吟の宗家に出会い、剣舞の素晴らしい先生にも出会い、「アンタは女だからもう少し扇の扱い方を考えたら…」と、言われても、周りは全く知らない人ばかり。丁度その頃、夕刊で、創流を立ち上げられた日舞の先生を知り、手紙を出したのが昭和63年12月29日。翌、平成元年1月より、弟子にして頂き、その翌年「御所人形」で初めて市民会館の舞台に立ちました。その後「織田信長」を演じた時、五織流さんも、よい青年が入ったね…と、耳にした時には、なんとも複雑な気持ちになった事も。「団十郎娘」で丁稚を演じた時は、何度も笑い声を聞き、日舞の舞台で「こんなに笑い声が出るの?」と、不思議な感じでしたが1年の間に、相方は違うものの、丁稚役を3回共演じ、笑いを頂いた事は、舞台に立った幸福を、今だに感じます。後日、家元から「人生の間に、同じ役柄を、3回も演じる人はいないわょ」と言われたのも、良い想い出です。お陰様で人の演じない役を、舞台で演じさせて頂いた事は、一生の想い出です。家元に感謝すると共に、現在お稽古に来てくれているお弟子さん達を、一度は市民会館の舞台に立たせてあげる事が私の夢です。

市民会館50周年の中で、私の50年は、言葉に言い尽くせない程の体験をしました。

2歳で父を亡くした私は、白髪になり、腰が曲がっても、主人と手をつないで歩くのが、夢でした。主人は「いつも馬鹿な事を-」と笑っていましたが、突然の別れが来てから、来年、17回忌を迎えます。つらい時、悲しい時も、舞い続け、毎年の市民会館の舞台で躍らせて頂けることが、私の心を癒してくれました。主人は「まだ、夢の様な事を…」と笑っているかも知れませんが、無趣味だった主人が、今でも映写機をのぞいて撮っている様で、私は、いつか主人の所に行く花道も、大好きな舞を演じながら、ゆっくりと歩んで行きたいと、思っています。

優秀賞「STAY TUNE」白井 琴音

今はもう、彼らの”音”は聴くことが出来なくなってしまった。

2021年冬、突然の活動休止を発表したSuchmosの音楽は、今でも私の心の中で生き続けている。

私が彼らを知ったのは、2016年にHonda・VEZELのコマーシャルソングとして起用されたSTAY TUNEという曲。当時新入社員で疲れ果てていた自分の心に、この曲は軽くゆるやかに入ってきて、でも確実に脳内に染み込んでいった。日々葛藤を抱えながら過ごしていた会社生活の中で、この曲は私にとって必要不可欠だった。この曲から派生し、Suchmosのさまざまな楽曲に心を委ね、忽ち虜になった。聴き続けること2年。「いつか、必ず生で聴きたい」という強い想いが叶ったのか、身近な名古屋市民会館でライブをするという。幼い頃からダンスを続けている私は、この場所に馴染みがあった。そのニュースを目にした瞬間、間髪入れず、地元の親友に連絡をした。

待ちに待ったライブ当日。親友が運転するVEZELの助手席に座り、名古屋市民会館へ向かった。長い行列に並び、受付の順番を待ち侘びた。しかし、そこで事件は起きた。私がチケットを忘れてしまったのだ。それがわかった瞬間、絶望的になった。家に取りに帰ろうかと一瞬頭に浮かんだが、間に合わないことは確かだった。それまでの高揚感とは裏腹に、最悪な気持ちになった。ずっと2人で楽しみにしていた今日この瞬間を無駄にしたくない思いと、でも、どうすることもできない現実との狭間にいた。

「行ってきなよ。」 親友が私にくれた言葉、今でも忘れない。チケットを忘れたのは私で、もちろん同じ言葉を言い返した。ライブ開始寸前まで埒が明かず、結局私が親友のチケットを握り、フォレストホールへ足を運んだ。親友は笑顔で手を振っていた。

複雑な気持ちを抱えながらも、ずっと好きだったSuchmosのYONCEが、わずか数メートル先で歌い出している。私の右隣は空席。「今頃親友はどんな気持ちで帰っているのだろう。」と頭に浮かんでは消え、ライブ中、その繰り返しだった。

2016年にテレビで聴いたあの衝撃、それから親友の車でよく聴いたSTAY TUNE。やっと生で聴けたという達成感と、なお釈然としない気持ちだった。あっという間に時間が過ぎ、一人、フォレストホールを後にした。ライブグッズを購入し、今度会ったら親友に渡そう、と心に決めた。

会館の外の階段を降りている時、下から誰かが手を振っていた。親友だった。親友はライブ中、ずっと私のことを待ってくれていたのだ。涙が出そうになった。帰り道、親友のVEZELで聴いたSTAY TUNEは、明らかに違う色を放っていた。

あれから4年。先日自分の結婚式があり、もちろん親友は私から一番近い席にいた。登場曲はSTAY TUNEにした。あの時の親友の優しさ、あの場所、そしてこの曲は、一生忘れない。

優秀賞「そして“芝居”が始まる」
小倉 一修

時計の針を左回りに回す。

それも高速で。今から、、、40年前。1982年の昭和57年。

私は大学受験に失敗し、浪人生活を送っていた。将来、自分は「何者になるのか?」真剣に、悶々と悩む日々。関心があるのは「法律」か「文学」。大学で言えば、法学部か文学部か。どちらの道に進むのか、毎日思い悩みながらの受験勉強はなかなか成果が上がらず、サボりがちになった。模試の結果を見ては、自暴自棄となり、映画館に入り浸るように。

そんな中、出会ったのが、ある“芝居”だった。

大好きな作家、井上ひさしさんの作品を舞台化。名古屋市民会館で上演された。今となっては、作品名をはっきりと思い出せないが、『国語殺人事件辞典』か『新•道元の冒険』だったか。この舞台に感銘を受けた私は、終演後、市民会館のロビーで出待ちをした。

(ひょっとして井上ひさしさんに会えるかもしれない、、、)

淡い期待を持ちながら待っていると、目の前に、現れました!井上ひさしさんが!

慌てて、私は近寄る。

「井上先生!芝居、面白かったです!握手して下さい!」

私が手を差し出すと、井上さんは苦笑いしながら、優しく握手に応じてくれた。

「ありがとう」

井上さんはそう言うと去って行った。その後ろ姿を見ながら、自分も「ものをつくる仕事」を目指そうと決意した。

あれから40年が過ぎた。

時計の針を戻す。

2022年、令和4年6月30日。名古屋市民会館から“日本特殊陶業市民会館”と名称が変わったホールを観劇のため訪れた。この春、私は35年勤めた会社を退職した。定年には少し早かったが、家庭や趣味に重きを置いた生活を送るため決断した。

ホールの座席に座り、私は40年前の“井上さんの握手”を思い出す。私は、大学で演劇学を専攻し、卒業後はテレビ業界で働いた。ニュース番組やグルメ、旅番組など様々なジャンルの番組制作に35年間携わってきた。

井上さんの掌の感触は今でも残っている。

面白い人生を送れたなと来し方を振り返ると、舞台が暗転。

芝居が始まった。

優秀賞「歌声の響く場所」A.M

平成初期の、私が小学1年生か2年生のことだったと思う。名古屋市民会館で行われた、区の音楽祭に出演した。1年生から6年生までの有志で結成された合唱団には、高学年のお兄さん、お姉さんたちもいて、一緒に歌えるのが誇らしく、嬉しかった。指揮を担当したのも同じ分団のお兄さんだったから、毎朝、登校しながらみんなで歌った。

私たちが歌ったのは、「怪獣のバラード」。砂漠にすむ孤独な怪獣が、希望をもって旅立つ。

「怪獣の気持ちになって、歌うんだ。」

「空に届くくらい、大きな口で、大きな声で歌うと、気持ちいいよ。」

お兄さん、お姉さんが教えてくれた。

音楽祭当日。毎日練習していた音楽室よりずっと大きな会場に、低学年の私たちは圧倒されてしまった。

「お部屋、おっきいね。」

「私、ちょっと怖い。」

そんな私たちの手を、お兄さん、お姉さんたちがしっかりと繋いで、

「いっぱい練習したから大丈夫だよ。」

「元気に歌おうね。」

何度も励ましてくれた。

舞台に立つと、あまりの広さにクラクラした。緊張で頬がこわばった瞬間、指揮のお兄さんがポケットから紙を取り出した。私たちに向けて広げた紙には、ニコちゃんマークと、「えがお!」と大きく書いてあった。お兄さんがニッと笑うと、私たちも思わず笑った。

お兄さんがうなずくと、音楽の先生がピアノを弾き始めた。

「真っ赤な太陽 沈む砂漠に」

私たちの歌声が天井に吸い込まれていく。みんなの声が重なって、気持ちがいい。大きな会場で歌うと、こんなに音が広がるんだ!新鮮な驚きだった。

歌い終わると、みんなが一斉に拍手をしてくれた。拍手の音が降ってくるように響いて、ドキドキした。歌うことは楽しいことだ、と初めて知った。

名古屋市民会館に行くと、いつもあの時の感動を思い出す。この場所で、歌うことの喜びを知ったのは私だけではない。将来は歌手になりたい、と言い出す子もいたし、実際に音楽の道に進んだ同級生もいた。それくらい、あの日の体験は素晴らしかった。

これからも、名古屋市民会館には、多くの人に歌う喜びや音楽の可能性を伝える場所であってほしいと願っている。

SNS賞「ワクワクの道」yuyu_camera_yuyu

「ワクワクの道」

いつもこの道を通るときは、楽しみだった劇やコンサートを見にいくとき。とてもワクワクしながら通っていたのを鮮明に思い出せました! 50周年おめでとうございます。これからも地域の憩いの場であり続けて欲しいです!!

その他エピソード

頂いたエピソードをご紹介させていただきます。

「私の軌跡」

R.K

今から12年前に市民会館で行われた名古屋開府400年のオープニング記念コンサートが私の進む道を決めたきっかけとなりました。

中高生と名フィルのジョイントによる名フィル☆ユース☆オーケストラ。中学に入り楽器をはじめた半年後にこの機会をいただき、市民会館の隣にある音楽プラザで名フィルの先生方の指導を5回程受けました。高校生の方もいらして知らない楽器のお話を聞く事も出来ました。ここで出会った先生方、仲間とはこの先も繋がっていきました。

3ケ月の短い練習期間でしたがとても成長し、益々音楽が好きになり高校・大学と音楽科へ進む事が出来ました。楽器を始めて1年も経たない私がオーケストラの舞台に立てるなんて夢の様でしたが緊張のあまり当日の事はよく覚えていません。ですが練習した曲はしっかり身に付いており後に演奏する時には「上手いね~」とお褒めの言葉をいただいた事もありました。

未来の音楽家を生むかもしれない名フィルジョイントコンサート。今後も機会があれば続けて欲しいイベントの1つです。

「市民会館に思うこと」

伊藤 弘子

 50年前と言えば私は27才。何でも子供の年令と重ねてしまうので、その時息子は2才。ということはその前後数年は、私は音楽や観劇どころではなかった。その後には離婚もあったりして、70年代~80年代初めは、映画や音楽好きの私の記憶はすっぽり抜け落ちている。結婚前はロックやクラシックのコンサート、試写会等で市公会堂、県文化講堂によく出かけた。市民会館はまだなかった。手ごろな文化講堂もなくなり、立派な芸術文化ホールになった。

どこでいつ何を見たかということは忘れっぽい私はよく覚えていない。日本特殊陶業市民会館は、以前は別の企業名がついていたと思うが、それすらも全く覚えていない。

最初はちょっと馴染めない感じがしたが、そのうち普通に通うようになった。地下鉄の通路の所まで行列が並んで開場を待ったことが何度もあった。

私の興味は巾広くて、ロック・クラシック・ジャズからシャンソンも好きだし、落語や邦楽も好き。市民会館1Fと2Fに会場があり(多分)2Fでの催し物が終って下へ降りて行くと、1Fでも何か上演していて、花輪(と言うのか)が一杯飾られていて、どうぞ、ご自由にお持ちください、と言われ、遠慮なく山程もらって帰ったことも何度かあった。その時の幸せ感と言ったらなかった。

今はどんな催し物にも花が飾られていることはほとんどなく、花をもらって帰るという習慣もなくなった。試写会自体ほとんどない。

市民会館で見た公演で多分一番新しいのは(最近、市民会館の催し物に参加することはめっきり少なくなった。コロナ禍とパソコンもスマホも持たないーーそれどころかケイタイも持っていない私は、催し物を知る手だてもなく、あれほど好きだった映画やコンサートに行く機会がきわめて少なくなったのだ)十年ほども昔(正確な年月は全く覚えていない)友人と出かけた山下洋輔コンサートだった。その友人というのが元ジャズピアニストで、専門家と一緒に行けたということが私には新鮮で楽しかった。でもどういう話をしたのかは覚えていない。

コロナや自分の年令のこともあって昔のように気軽に映画やコンサートに行けないのは残念だ。

市民会館は時々冠名が変わるようだが、利用するものとしてはちょっと淋しいし、親しみにくい感じがする。企業としては会社名を覚えてもらいたいし、宣伝する気持ちもあるだろうが、文化という面から考えると、その時々で名前が変わるのはいかがなものか。多くの人は日本特殊陶業というカタイ名前でそれほど口にしないのではないか。企業名より永続的な親しみやすい名前にするか、名古屋市民会館だけでいいのでは?というのは甘い古い考えだろうか。数少ない活字人間、紙人間のためにも、これからもチラシで催し物を知らしめていただきたい。

「コノハ警部」

坊垣 香理

ベビーカーを押しながら急いで走る私たちを迎えてくれたのは、コノハ警部と音楽隊の方々でした。上の子2人を優しく包んでくれたコノハ警部は今も私にとっては押しです。

あれからもう何年も経って、子供らにとってゆるキャラはただの着ぐるみにかわってしまいましたが、あの頃は日本中がゆるキャラの大群であふれかえっていた時代。子供らの記念写真にはいつもゆるキャラがいました。私たちもいつもゆるキャラに囲まれて、今だと少し恥ずかしいですが…

そんな時に名古屋市民会館での音楽隊のコンサートに参加させていただきました。いろいろとあって時間ギリギリになりましたが、それても皆さんは笑顔で迎えてくれ、コノハ警部も時間をたっぷり使って接してくれました。本当に感謝しています。

多分、皆様はすごくいいエピソードを書かれると思いますが、子供らにとって素敵な時間を過ごすことができたので、私にとっては本当にいい思い出です。早くコロナが終ればまた行きたいと思います。

「長男の大学卒業式」

田中 美智代

長男が、卒業単位が足りなくて留年かと、ヒヤヒヤしましたが、なんとか無事、卒業式を迎えた思い出の会館です。

「歌手のひと声」

A.T

わたしは、懸賞や公募に応募することが、十代から趣味です。名古屋市に住んでいるわたしは、毎月、フリーペーパーのクラブナゴヤのアンケート付き懸賞コーナーにも、まめにハガキを出していました。

ある時、懸賞がなんと、うちの母が大ファンの由紀さおりさんのコンサートで、市民会館中ホールで行われるではありませんか。わたしははやる気持ちで、母が大ファンです、とハガキに書いて、ダメもとで出しました。すると、なんと当たったのです。母はもちろん大喜びです。それだけでもすごいのに、コンサートの終盤に、わたしが服薬をするためにこそっと母と二人で席を立ちました。その時、あの由紀さおりさんが、「お客さん、帰らないで」と声をかけてくれたのです。もう二十年程前のことになりますが、わたしと母にとっては、忘れられない大切な思い出です。

「幕引き」

浅見 銑治

「そうか。もう50年」

偶然手にした「想い出・未来エピソード大募集‼」のチラシを見てそう思った。

昭和30年(1955年)、私は中学校卒業と同時に、名古屋市中区内で働くことになった。朝6時ごろ、自転車で家を出て、12㎞ほどだったかを通った。

当時はまだ「名古屋市民会館」はなかった。あったのは現在地の西の「金山体育館」。他に公共施設は少なく、スポーツだけでなくいろいろな催しに使用されていた。

代表的なものは大相撲。愛知県体育館になる前はここだった。名古屋場所といえば夏も真っ盛り、冷房設備もない時代のこと、涼をとるための会場に立てられた氷柱は風物詩となっていた。

もうひとつ。1961年(昭和36年)に旧ソ連が打ち上げたボストーク1号で史上初の宇宙飛行士となり、「地球は青かった」でも有名になったガガーリンが来館するというので見に行った。がごく普通の人間だった。

しかし、生きて帰れる保証もないことに挑戦したのは凄いと思った。

今では日本人宇宙飛行士も幾人か誕生している。

「おいおい、話はこっちだろう」

名古屋市民会館に叱られそうだ。この会館は金山体育館の後継施設として建てられたように記憶するがどうだったろう。残念ながらオープン当時のことは全く思い出せない。その後は転勤などで疎遠になった。

近くは、といっても、もう、4、5年も前のことになる。会館そのものに年代を感じた。この時は合唱や京劇環礁で足を運んだが、以来、ご無沙汰である。

コロナ禍もあったが、それよりも年齢の所為である。インターネットの時代にあって、それについていけない老人には、かえって情報不足になってしまうし、突然の体調変化などを考えると二の足を踏んでしまう。今秋には83歳である。

勝手にも、最期は人生の同伴者に看取られてと決め込んでいたのに、まんまと先を越されて独居生活もすでに久しい。

アルツハイマー病を見てきたためか、認知症や寝たっ切りに臆病になってしまった。少しでも予防になればと毎日歩き、無い頭でも無いなりに使い、出無精に陥らないように月2・3回は街へ出るようにしてきたものの、ここに至ってかなり難儀になってきた。

戦後、首相にもなった石橋湛山は「世の中は新陳代謝だ…人は適当の時期に行くもまた一つの意義ある社会奉仕でなければならぬ」と書いた。

間もなく、私もその奉仕をさせていただくことになる。

「急だったなぁ。きのうも特殊陶業市民会館へ行ってきたと言っていたのに」

なんてことになればこの上ない。

「トイレでの遭遇」

E.U

1977年(昭和52年)10月に開催された野口五郎さんのコンサートでのお話です。友人とふたりでコンサートに来ていました。間もなく開演なのでトイレを済ませておいた方がいいと思いトイレに向かうと女子トイレにはすでに長蛇の列が出来ていました。私たちは『やだぁ〜こんな並んでなら始まっちゃうよ』と話しながら、ふと男子トイレを見ると静かな感じで誰も入っていなさそう。友人と顔を見合わせ(考えている事は同じ)いけない事とは重々知りつつ『ちゃちゃっと済ませば大丈夫だよね』と言いながら男子トイレを使う事にしました。用を済ませてトイレのドアを開けると手を洗う所に1人男性がいました。私たちは『すみません』と言いながら急いでその場を離れました。私はその男性の顔を見れませんでしたが友人はちゃっかりと見ていて、その男性は野口五郎さんの当時のマネージャーさんだったんです。男子トイレで五郎さんのマネージャーと遭遇するなんて運が良いのか悪いのか…失礼な事を致しました。

「戻ってきた!有観客ライブ」

T.K

2021年5月1日DISH// Spring tour X

約1年半ぶりの有観客ライブ(ツアー)スタート

コロナ前の2019年は個人的に受験生の立場でライブを自粛していた為、やっとの有観客ライブでした。

色んな反対を押し切って自分の意思と覚悟で夜行バスで向かった高2年のこの思い出は一生忘れません。

「デビュー公演」

神原 ゆかり

私は佐々智恵子バレエ団時代、二十歳になったばかりの1983年に市民芸術劇場'84『はばたくバレリーナたちNo.3』という企画公演に選出され、1984年10月に当時の名古屋市民会館中ホールにて、プロとしてデビューさせて頂きました。デビューさせて頂きました。劇場というのは、やはり思い入れがあります。その後、バレエ団公演や(社)日本バレエ協会中部支部公演においても何度も踊りました。そしてフリーのダンサーとなり、ゆかりバレエを立ち上げたのちも、何度もこの劇場にて、踊る機会を頂きました。そして今年9月19日(月祝)にゆかりバレエ公演2022を名称こそ変わりましたが、ここ日本特殊陶業市民会館ビレッジホールにて開催、踊ります。舞踊生活50周年を迎えた今もこの思い入れのある劇場にて踊れる喜びは本当に格別です。想いを胸に今年の公演も大切に踊りたいと思います。

「音楽からもらった宝を紡いでくれたもの」

H.O

 私は幼少の頃からバイオリンを習っていた。初めは何がなんだかわからない状態でただただ習わされていた。小学生になると母に連れられて電車に乗って音楽教室に通うようになった。教室のバイオリンの先生は、よく演奏会のチラシをくれた。「生演奏の音楽を聴くということはとても勉強になるので、できるだけたくさん演奏会に行きましょう」と先生はおっしゃった。母は安城市から電車に乗り、7歳の私と8歳の姉の手を引きいそいそと演奏会に通った。着ぐるみのコンサートや舞台も行ったが、いつのまにか名古屋フィルハーモニーの、クラッシックにどっぷりと浸った演奏会へと通うようになった。私が7歳だった1986年、名古屋フィルハーモニーは名古屋市民会館でコンサートを催していた。私のバイオリンの先生も出演なさっていたので、母はその度にチケットを購入し、名古屋市民会館へと行った。安城市からは、JRで行きやすく交通の便も良い場所にあった。しかし演奏会が終われば夜も遅い時間になっている。それでも、母は何度も連れて行ってくれた。実はクラッシックの演奏会に慣れるまで私はオーケストラとクラッシック音楽の良さをまるでわかっていなかった。後ろの方の席に座り、演奏者がよく見えない中で聞く音楽は、眠りに誘うものもあった。しかしある時、先生がよく見えるように客席の一列目に座ってみたのだ。母は難色を示したが私は譲らなかった。母は変わらず後ろの席に座った。小学生が一人で、ファーストバイオリンがよく見えるところに座った。奏者が出てきたとき、先生が私を見つけて目を見開いて驚いたような表情をなさった。しかし、私はその演奏会で稲妻を食らったような衝撃を受けた。1987年の7月の夏の定期演奏会だったと記憶している。その演奏会はソリストがいなかった。だからかもしれない。私はバイオリン奏者を食い入るように見つめた。テレビで見ているとバイオリン奏者は皆、同じ持ち方で同じように弾いているように見えた。しかし一人一人違いや特徴があり、ビブラートのかけ方もだいぶ違う。しかし、それが音の塊となって私の耳や胸に届く頃には音楽は一つの綺麗な調となり、私の胸を感動させるのだ。音楽は小さくなって大きくなって優しくなって激しくなって絶えず私をその世界へと引き込んでいった。この先は、先はどうなるの。絵本の先を気にする子どものように、音楽の先、この先は、とワクワクしながらページをめくるような感激がそこにあった。私は2時間の演奏会の瞬きをじっくり聴いて、そして観察した。その時に名古屋市民会館というホールが私を音楽の世界へと誘い、そして感動させ、音楽への興味を膨らませてくれたものだと思った。今、バイオリン講師として仕事をしている自分はあの日の小さな自分が受けた感動から成り立っているのだと思う。そんな感動を未来へもずっとずっと名古屋市民会館が紡いでくれるだろう。

「熱田区の成人式」

田中 良知

私と名古屋市民会館の思い出は平成11年に行われた熱田区の成人式です。私の地元熱田区では各小学校単位で成人式をせず、熱田区の7小学校合同で市民会館を利用して成人式が行われていました。

私は中学受験をして地元の中学校に進まなかったので、小学校の時の友達に会うのは8年ぶり。ワクワクと緊張が入り混じった気分で着なれないスーツを着てみんなより少し早めに市民会館に到着しました。

というのも成人式の協力委員として設営のお手伝いをさせてもらい、席も同じ小学校の友達とは少し離れたところに座りました。

成人式の演目の中に新成人の誓いというものがあり、誓いの言葉を述べさせていただいたことと、前年成人の先輩から成人の灯火という蝋燭の火を受け取る役をさせていただきました。

初めて立たせていただいた市民会館の舞台はとても大きく、緊張で息がつまる思いでした。舞台から見る客席はとても眩しく感じましたが、少し目が慣れてきたのか懐かしい友達の顔がはっきりと見えてきて、とても頼もしく不安が飛んだのを覚えています。

終了後ホール前の広場で沢山の小学校の友人の輪に入りやすかったのも、舞台に立たせてもらい他の友人も事前に顔を見てくれたことで、思い出してもらえたからと思います。

そして1番の思い出は、翌年もう一度同じ舞台に立たせていただき、新成人に対して先輩として成人の灯火を渡させていただいたことです。

2度も成人式に出席し、市民会館のあの舞台に立たせていただく機会をくださった皆様に感謝すると共に、50周年の記念の年を迎えられる関係者の皆様にお喜びを申し上げます。

「10年前とこれからと」

城野 江輝

私が最初に日本特殊陶業市民会館に行ったのは高校生の時です。私は演劇部に所属しており、その時も演劇を見に来ました。10年以上前のことです。それからも音楽好きの友人の付き添いでよく音楽のイベントに行きました。演劇と音楽はジャンルは違いますが人を喜ばせるというところは同じだと思った。私も音楽のことが好きになりました。友人は今イベントや観光の仕事をしています。私も会社員をしながら物書きをしたり劇団に入ったりしています。小さな劇団ですがいつかは日本特殊陶業市民会館の舞台に立てるよう、この場所で感じた人を喜ばせることのできる人間になれるように地道に頑張っていきたいと思います。

「私と市民会館、そして家族」

川瀬 理恵

昭和63年、合唱を始めた小学生の頃から憧れていた音楽部のある高校に入学し、合唱漬けの3年間を過ごした私。

短大進学後は決まった合唱団には所属せず、第九に参加して合唱を続けていました。

社会人になり母校の高校の卒団生で発足した合唱団に平成5年入団。

市民会館はコンクールや合唱祭等で何度もステージに立たせて頂きました。

練習会場も音楽プラザが多く、沢山の仲間達と歌った青春の場です。

後にOB以外も入団可能になり主人ともここで出会い、平成10年に結婚。

出産直前まで合唱団にいたのでお腹の中で一緒に歌っていたのか生まれてきた娘は私達に似て歌う事が大好き。

平成24年に入学した中学校では合唱部に入部しました。

そして娘もコンクールで市民会館のステージに。

私はステージに乗る側から客席で娘達の応援側に。

市民会館は名古屋地区予選会場、愛知県大会出場を賭けた大事な舞台。

結果発表の時は自分達が出演していた時と同じ様にドキドキ。

金賞発表で娘達の学校名が呼ばれた時にはママ友と抱き合い、喜ぶ娘達の姿を見ては同じ様に嬉し泣き。

他校には自分の高校時代の仲間が指導者として何人か出演。

ずっとお会いしたかった恩師と再会できたのもこの時でした。

所属していた合唱団とは別にあったOB合唱団の演奏会。

私は残念ながら仕事等の都合で参加はできませんでしたが、平成28年に市民会館で行われた演奏会にはステージ上にも客席にも懐かしい顔がいっぱい。

アンコールでピアニストの先輩に付き添われながら80歳を過ぎた恩師がステージに。

客席に向かって校歌を指揮してくださった時は、再び恩師の指揮で歌えた事が本当に嬉しくて涙が止まりませんでした。

終演後は会館内の喫茶店での打ち上げに参加。

恩師や仲間達と楽しい時を過ごした光景は今でもはっきり思い出せます。

娘は平成27年に音楽科の高校に進学しミュージカルを勉強。

在学中に演奏会等で市民会館のステージに立つ事はありませんでしたが、私もミュージカルを観るのは大好きなので今度は共通の趣味の場になり、平成28年は劇団四季の「ウエストサイドストーリー」、令和4年は「リトルプリンス」や名古屋出身の山田裕貴さん主演の「海王星」を観に行きました。

昭和・平成・令和、愛称もネーミングライツで変わったりもしましたが、市民会館は私にとっても娘にとっても思い出の詰まった場所です。

今、娘は舞台役者として活動し、3歳下の息子は大学で舞台音響・照明の勉強をしています。

まだ市民会館での出演公演はないのでいつか今度は息子が照らす照明で娘が役者として立つステージを観に行きたいです。

「White Christmas(ホワイト・クリスマス)」

K.T

今から49年前の12月24日、名古屋市民会館中ホール(当時)で開催された高木麻早さんのコンサートに交際を始めたばかり・初デートの私たちは居た。このコンサートを初デートに選んだ理由は(麻早さんが高校3年生その高校の音楽室から見下ろされる独身寮に、田舎から出てきたばかりの私の部屋があって、翌1973年ヤマハポプコンで優勝した麻早さんを身近に感じていたのか?)それよりも「ひとりぼっちの部屋」の歌詞が、交際し始めたばかりの彼女の「奔放な振舞いながら危なげな姿」と重なったように感じていたからなのかも。

女性への気配りに不慣れな私はぎこちなく寄り添い、それでも精一杯コンサートを楽しみ、酔いしれ、彼女と素敵な時間を共有した。

そして今でも鮮やかに覚えている。コンサートが終わって二人で会場を出ると、外は銀世界。しんしんと降る雪は彼女の肩にも降り積もり、彼女の瞳と同じくキラキラと輝いていた。これから彼女と付き合っていける幸せを心いっぱい感じた「ホワイト・クリスマス」。

コンサート曲「シーハイル」に影響され、年明けから彼女と何度かスキーにも行った、ドライブにも、ハイキングにも。甘さと酸っぱさが繰り返し二人を包む青春の期間だった。そして二年間後の12月、高熱を出して独身寮で4日間寝込んしまった私は、病状を気遣ってくれない彼女に不満を抱き、彼女の気持ちに思いを馳せる事無く、一方的に別れを告げた。麻早さんが「想い出が多すぎて」を発表していた。今思うと、甘酸っぱくもほろ苦い2年間、未熟な私が至らなかったばかりに、ごめんなさい。たぶんその後の麻早さんの「忘れたいのに」は聴いてくれていないだろうな。

当時は音楽はリズムとメロディーばかりが耳に入ってきたのに、71歳の現在は、曲を聴くと歌詞がすんなり心に染み込んでくるようになったような気がする。最近ユーチューブで麻早さんの曲を聴くと、柔らかで甘い声の「詩」が先行して入ってくる。歳をとるって良いこともあるのかも。

その後、妻と交際を始めてからも市民会館のコンサートには何度か出かけた。誰のコンサートだったかが思い出せないのは妻に申し訳ない。雪が降っていた、あの12月24日のコンサートだけが今となっても鮮やかに蘇ってくるのは青春の1ページとでも言い訳しとこうか。

今思う。もし叶うなら、中島みゆきさんのコンサートが市民会館で開催されたらとても嬉しい。その時は、古希を過ぎた妻を誘って必ず参加したい。麻早さんとは違う大人の中島みゆきさんの曲で、歌詞を心に染み込ませながら、妻に45年間の感謝の気持ちを込めて、その時を共有したい。

「パワースポット」

Y.K

中学から吹奏楽を始め、コンクール等では何度も市民会館に立たせてもらいました。当時は中京大学文化市民会館。ここで行われる名古屋地区大会で金賞を取り代表校に選ばれない事には次のステージには立てません。お陰様で、3年間代表校に選ばれました。ですから私にとってはパワースポット会館です。出演後にホール内の階段と外の大階段で写真を撮ってもらうのが好例ですが、今でも行われている様です。

「自分などというものは」

Y.Y

脱皮。抜け殻。脱皮。自分を越えよう!という不自然な歌詞の歌がよく流行ったりする。奇怪な歌詞である。自分を飛び越えようと歌う時、自分などというものはどこにも見当たらない。会場の女子高生は二人おきに座っていた。隣の席の「トモダチとトモダチのコイビト」に介護で尻まで開かれたら将来がないからである。熱狂した盛り上がりと同じ日本特殊陶業市民会館とは思えない。死んでしまうものというのがある。トモダチではなく野生の動物だったというオチから、死んでしまうものを最早惜しんだりもしないだろう。一度で懲りることではなかろうか。一度であらためないと、全部殺したことを正当化したことまでまた殺すことになる。普通の傷ではなかったが、やはり覗いて傷ついたことを罵るのが日本人だった。誰のふりをしてももう何もしてやれない。してやれないのだ。

「初めての海外オペラ鑑賞」

Y.H

1975年、まだ9歳だった私は、父に連れられて、メトロポリタン歌劇場の「カルメン」を観に、市民会館に行きました。タイトルロールを歌ったのはマリリン・ホーンでした。当時からテレビでは父と一緒にオペラを観ていましたが、生のオペラの舞台を見たのも、メトを観たのもそれが最初でした。当時の父の収入を考えれば、チケット代はかなり高額で、父にとっては小学生の娘を連れて行ったというのもかなり冒険だったと思います。大人になってからも、彼女の舞台は強烈な記憶として残っており、ほぼ同じ配役のCDを買い求めました。市民会館は、その後もパリ・オペラ座バレエの「ロミオとジュリエット」(主役のシャルル・ジュドが怪我をして降板し、舞台は墓場のシーンを残して中止)やモスクワ・オペラ・バレエ(スタニスラフスキー=ダンチェンコ記念音楽劇場)などの公演を観に訪れており、こども時代のバレエやオペラ鑑賞に欠かせない場所として、思い出に残っています。

「音のリレー・気持ちのリレー」

E.A

ちょうど30年前の夏、中学生だった私は大ホールの舞台に立っていました。吹奏楽コンクールに出場したのです。初めて触る楽器を少しでも上手に操れるよう、皆さんに良い演奏聞いてもらうため、毎日たくさん練習してその日を迎えました。本番を迎える直前は舞台袖で他校の演奏が聞こえます。たくさん練習してきたつもりだけど私たちより素晴らしい演奏な気がする、大丈夫かな、いつも通りのチカラが発揮できるだろうか、あの小節は上手くできるだろうか。ドキドキする、、練習してきた音を皆んなに聞いてもらうんだ!自信持たなきゃ、大丈夫。。。様々な感情が沸き上がり緊張の中本番を迎えます。いざ演奏してみたらあっという間。出来た!仲間とやり遂げた!演奏を終え、退場した後は達成感で胸がいっぱいだったことを今日、思い出しました。今日、私の娘が正に同じ経験をしていたのです。彼女は清々しい表情でイキイキと、楽しんで演奏していました。ホールには一人の音ではできない、数十人が奏でる数十の音を一つにした美しい音が流れていました。一生懸命練習してきたものを出し切る気迫のようなものを感じました。

こうして50年分の美しい音色や人々の気持ちがこのホールの壁には染みついています。リレー競技のバトンのように、このホールの壁は演奏者の音と気持ちを思いっきり吸収し響かせ、また次の演奏者に繋いでいるように感じました。みんなで繋いで作ってきたこのホールを、このバトンを、次の演奏者に引き継いでほしい!今日の演奏を聴きながらそう感じました。

次は娘が大人になり、娘の子供が演奏して私のような気持ちになってもらえたら嬉しい。そうやってこのホールを受け継いでいき、みんなの思いが詰まったホールになってほしい。一人の名古屋市民として、切に願っています。

「ミーハーな私」

Y.K

2016年でしたでしょうか?御園座の改修工事に伴い市民会館で錦秋名古屋顔見世のまねき上げが行われた事が印象に残っております。たまたま通りがかった市民会館で普段とは違った空気が流れていてこれは何かあると思い、並んでいる方とお話して待っておりました。

御園座の工事に伴い金山で顔見世が行われてもう4年目になるとか。全く知りませんでした。待っていると、テレビでお見かけした事のある方が何人も出てこられて急いで携帯で写真を撮りました。片岡仁左衛門さんはダンディで素敵、今は十代目松本幸四郎さん(当時は染五郎さん)はテレビで見るより物静かな印象でした。まねき看板に清めの塩投げ、鏡開き、ご挨拶等があったと記憶しております。間近で歌舞伎役者さんを観られ虜になり、慌ててチケットを買いました。煌びやかな舞台で幸せなひと時を過ごした事を思い出し私の市民会館の思い出として書かせていただきました。

「忘れられない吹奏楽コンクール」

S.K

名古屋市の中学高校のほとんどの吹奏楽部員の夏は、市民会館から始まる。

毎年、吹奏楽コンクールの名古屋地区大会が市民会館で開催されるからだ。

新学年になり、4月からの練習の成果が試される時であり、吹奏楽部の最大の目標としている所が多いと思う。

私も中・高校とコンクールに参加したが、一番記憶に残っているのが、中三のコンクール。

中二の時にも参加したが、その時は銀賞だった。

中三の時、私の中学校は、金賞を目標とした。

だが、県代表には選出されない、通称『ダメ金』で十分だと思っていた。

というか、県代表なんか夢のまた夢と思っていて、県代表に選出される事は考えていなかった。

各学校がプログラム順に演奏する。

自分たちの演奏順が近付くと、控室、舞台袖へと、移動していく。

舞台に上がった時、照明の明るさ、普段の音楽室とは違う広さ、目の前に客席が見える。

でも、顧問の先生のタクトが上がったら、夢中で演奏をする。

全ての学校の演奏が終わり、各学校の結果発表がされ、プログラム順に、金・銀・銅の結果が発表される。

出身中学校の名前と共に『ゴールド、金賞』とコールされた。

コールされた直後、嬉しい悲鳴と涙した事を今でもありありと思い出せる。

全ての結果が発表された後、県代表が何校か発表される。

そこで、出身中学校の名前がコールされた。

多分、参加した全部員、もしかしたら、顧問の先生も予想していなかった結果。

嬉しさと驚き、興奮といろんな感情が出て、涙が止まらなかった。

県大会までの数日、ふわふわした気持ちで過ごし、県大会に参加。

結果は銀賞だったが、県大会は予想外の出来事だったので、賞の色なんて、はっきり言えば、何でも良かった。

でも、銅賞では無かったので、嬉しい誤算だった。

何故か、翌日の新聞に、『○○中は銀賞』と掲載され、驚きもした。

毎日、学校に行き、練習した日々。

辛い思い出は無く、楽しい毎日だった。

もしかしたら、当時は、辛いと思ったかもしれないが、その記憶が書き消される程、金賞を獲れた事、県代表に選出された事は、嬉しい出来事として、記憶に残っている。

そんな記憶がある、市民会館はとても思い出深い場所だ。

コロナウィルスが蔓延し、部活動が出来なくなり、吹奏楽コンクールも中止に。

現役、吹奏楽部員は、悔しい思いをしたと思う。

少し、下火になった今も、制限のある練習になっているかもしれない。

吹奏楽部員だけでなく、全ての部活動が思いっきり活動出来る世の中に早くなる事を願ってやまない。

「寄り添える人でありたい」

A.Y

私の将来の夢は、人に寄り添うことのできる司書になることです。

そう思うようになったきっかけは、高校二年生の時に不登校になったことでした。周りの友達や家族はみんな学校に行っていたり、卒業した人達。学校へ行くことが当たり前な世界。そんな世界で不登校になった私は不安で不安でたまらなかった。なんとか勉強はしないとダメだと思い図書室で勉強していました。将来自分はどうなるのだろうという不安を抱えながら毎日図書館で勉強する私に声をかけてくれた人が居ました。その人こそが今私が目標としている人です。勉強を教えてくださったり、不安や孤独感に押しつぶされそうになった時の相談相手、学校が休みの日も図書室を居場所として提供してくださいました。時々、司書の仕事も体験させてくださいました。それがとても楽しかったのを今でも覚えています。現在は、司書を目指し大学にも通っています。同じ目線に立って悩み、考え、支えてくださった図書館の先生。とても心強く、今でも心の支えになっています。学校に行けなくても学ぶ機会は大事だと思っています。だから、その人の興味のあることだけでも幅を広げるお手伝いができればいいなと思っています。興味のあることから幅を広げていけば、将来の職につながるかもしれない。その可能性にかけてサポートできる人でありたい。少年院や刑務所を出所後に職を見つけられず無職で家もなく、孤独や寂しさから悪い仲間のもとへ行ってしまうという例もYouTubeで見たことがあります。私も不登校になった時に経験しました。信じて、一緒になって悩んだり、考えたりしてくれる人が周りにいるだけでかなり違うのです。頑張ってみようという原動力にもなるのです。私も司書として誰かの原動力になれたらいいなと思います。私の弟は聴覚障害と発達障害を持っており、コミュニケーションをとることが難しいです。声でコミュニケーションをとることは難しくても、手話や人の表情でコミュニケーションをとることはできます。私が将来なりたい自分の像として、そういった障害がある人でも孤立しないように寄り添える人になることです。アルバイト先でも時々、聴覚障害を持ったお客さんが来られることがあります。その時に手話で接客をすると最初に驚き、喜んで笑顔になってくださいます。私はその笑顔でいっぱいにしたい。周りの人と違うところがあっても、誰かが一歩近づいていくだけで少し楽に、少し笑顔になれると思います。私はそういう人になりたい。そのために今大学で社会福祉や障害を持った方との関わり方、仏教目線での人の心の在り方を学んでいます。同じものを見ても全く同じように感じる人はほぼ居ないに近い。それがなぜなのかを知りたくて、仏教目線からも人の心を勉強しています。夢に向かって私は頑張り続けます。

「今では金山の住人に。」

M.K

愛知県生まれの愛知県生まれ育ち、コンサートやイベントで子供の頃から市民会館によく訪れてきました。特に、音楽が大好きなので、大人になってからはいろんなアーティストのライブ会場として私のとっては欠かせない存在です。

中でも一番の想い出は、2018年6月に大好きな韓国人俳優さんのファンミーティングが開催されたことです。この時は、全国各地からファンつながりの多くの友人が市民会館を訪れてくれました。また、大好きな俳優さんが市民会館を会場にファンミーティングを開催してくれたことが本当にうれしかったし、今でも市民会館を見るたびに、その時の興奮を思い出します。(今まで国内外の数多くのコンサートやイベントに参加してきましたが、実は、このファンミーティングが人生の中で最も記憶に残っています。)

当時は、名古屋で暮らすことになるなんて思いも寄りませんでしたが、3年前から仕事の関係で愛知県内の実家から、名古屋市内に引っ越して生活するようになりました。そして、名古屋市内のどこに住んでいるかというと、『金山』です。なので、今は市民会館周辺が毎日の散歩コース。まさか、市民会館がこんなに身近になるとは。市民会館の外に貼ってあるポスターを見て、いろんなイベントがあることにいつもワクワクしています。市民会館周辺の散歩の楽しみは、季節ごとに雰囲気が変わること。木が多いので、金山駅すぐの都会のオアシスを感じられるところが大好きです。中でも一番好きな季節はクリスマスシーズンのイルミネーションです。

これからも名古屋市の、金山のシンボルとして、楽しさや癒しを与えてくれる身近な存在であってほしいと思います。

「ニッセイ名作劇場の想い出」

大島 清和

名古屋市民会館の思い出といって、すぐ頭に浮かんだのは、もう今から、35年も前のことだ。

当時(昭和62年)、私は、名古屋市内の小学校で、6年生の担任をしていた。

その頃、劇団四季のミュージカルの無料招待公演が、毎年、市内の6年生を対象に、名古屋市民会館で、行われていた。

本格的なミュージカルを鑑賞できる機会など、なかなか難しい時代だったので、子どもたちも、私達教員も、このミュージカル鑑賞の噂は、よく聞いていて、当選することを楽しみにしていた。

引率という仕事ではあるものの、職員室で学年の同僚と、「今年は、当たるだろうか?」「今年は、当たると、『〇〇〇〇』らしいよ」などと、年度始めは、話題にあがるほどであった。

なぜこんなに、楽しみな話題になっていたかというと、市内約280校の小学校のうち、名古屋市民会館で、この「ニッセイ劇場」が当たるのは、70~80校だったからである。

噂によると、1回当たった学校は、3年は、当たらないと言われていた。なので、6年生になったからといって、必ず行ける訳ではない。また、教員も6年の担任になっても、必ず引率して、子どもたちと一緒に鑑賞できるわけではない。

6年の担任をする機会が多かった私だが、なかなか当たったことがなかった。

昭和62年、私は、6年の担任となった。この年、その学校では、もう3年以上当選していなかった。なので、今年は、当たる予感がしていた。

子どもたちからも、「先生!今年は、市民会館のミュージカルを鑑賞に行けますか?」「去年も、その前も、当たっていないから、今年は当たるんじゃないですか?」など、4月は、質問攻めにあっていた。

昭和62年、この年は、見事に当選した。私も当時は若く、子どもたちと一緒に、「やったぁ~!」と、手を叩いて喜んだことを、今でもはっきりと覚えている。

当日は、金山駅を下り、市民会館近くの古沢公園で、みんなで仲良く弁当を食べ、ワクワクしながら、公演時間を待っていた。

その年の演題は、『夢からさめた夢』だった。ピコとマコという女の子が1日だけ入れ替わるというファンタジー物語だった。

交通事故で亡くなったマコが、母親を慰めるという、ちょっぴり切ない話だったが、歌もダンスも素晴らしく、「よかったぁ」「泣けちゃったね」など、口々に話しながら学校へ戻った。その後、しばらくは、朝の会で、テーマソングをみんなで歌っていた。

あの時の6年生は、どうしているだろうか。きっと立派な大人になり、活躍していることだろう。 当時、ミュージカルを鑑賞した大勢の市内の6年生も、元気でいるだろうか。時々は、市民会館での感動を思い出しているだろうか。

市民会館は、私と6年生の子どもたちとの感動の聖地です。これからも、感動を生み出す市民会館であり続けることを、心より願っています。

「青春の名古屋市民会館」

M.W

中学時代まではバスケットボールに熱中していたのですが管理教育で有名な高校に入学し、部活必須ということでバスケットボール部の活動を覗くと高身長の入部希望者ばかりでこりゃかなわんと断念。

同じ中学から進学した友人に「合唱部は可愛い子一杯で楽しいぞ」と誘われ非常に不純な動機で混成合唱部に入部しました。

可愛い子がいたかどうかはさておき、Nコン・合唱祭で少しでも上位を狙うということで結構ハードな練習をしてましたね。このころ初めて市民会館の中ホールに立ったわけですが何より舞台裏の大きさに驚いた記憶があります。

以来今はなき勤労会館や港湾会館でもステージに立ちましたが市民会館の中ホールは比較的返りがよく歌いやすいホールだったと記憶しています。

当時県大会では常に3位が定席で絶対王者のK高校には歯が立たず県大会より先には進めませんでした。まああまりに実力差がありましたのでそれほど悔しくもなかったと思います。

その後顧問と対立し進学勉強も大変になり、少し早く引退しました。

なんとか目標の大学に進学でき、さあテニスサークルにでも入って青春を謳歌しようと入学式に臨んだのですが、式後満面の笑みを浮かべた同じ高校出身の先輩に拉致され「男声合唱団」なる部室に連れ込まれ目論見は淡くも夢と消えました。

当時この大学の男声合唱団は多くの団員が卒業し、廃団の危機にあったのですがこの年20名近くの団員の獲得に成功し存続に成功したそうです。定期演奏会の団員紹介パンフで私とK高校出身のIくんは自らの意思で入団しましたとありましたが、いえいえ意志薄弱だっただけです。

この団はコンクールを目指す合唱団ではなかったので冬に開催する定期演奏会が最大の催し物でした。当然その舞台は市民会館中ホールです。入場料は500円でしたか、ノルマは20枚。ほぼ身銭切ってましたから今思えば当時の貧乏大学生にとってはきつかったなあ。

しかし歌うことは大好きだったので楽しい思い出しか残っていません。七大学男声合唱団合同演奏会。三教育大学合同演奏会などいろいろとお世話になったのが中ホール大ホールです。

当時は録音環境もあまりよくなく定演含め音源が手元に殆ど残っていないのですが中ホールで録音した定演の「合唱のためのコンポジション 第6番」「合唱組曲 阿波」はMP3に変換して今でも車中などで懐かしく聞いています。

私にとって市民会館のホールは人生最初にして最後の晴れ舞台だったと思います。

「なごり雪」

J.Y

「金山駅」と聞くと甘酸っぱい思い出がよみがえります。それは、昭和五十年代のことです。

私は、生まれ故郷の高校を卒業し岐阜市で働き始めました。そんなある日、職場に三歳年上の女性が入社し臨時職員として働き始めました。小柄で目鼻立ちが整った女性でした。人当たりもソフトで奥ゆかしさと明るさを併せ持った魅力的な女性でした。

当時私は大型バイクに乗っていました。

ある時、岐阜市内のバス停の前をバイクで通りかかったら、バス停に居た女性が手を振りました。そして、私のニックネームを大声で呼びました。その彼女でした。それからのこと、生まれ故郷が偶然にも同じだったことも手伝って仲良くなって行きました。

当時職場のワンダーフォーゲル部に入っていましたが、行事がある度に彼女を誘ったら「私も山を歩きたい」と喜んで参加していました。また、彼女のアパートで彼女の女友達も呼んで、手巻き寿司パ―ティーを開いたり、バイクの後ろに彼女を乗せ、伊吹山ドライブウェイや金華山ドライブウェイを走りました。

当時私は、彼女のことで頭がいっぱいでした。私が年下だったこともあり、彼女は私の誘いを受け入れてくれました。彼女は、音楽が好きでした。偶然目にしたイベント情報で「イルカ・コンサート」が催されることを知りました。開催場所は、名古屋市民会館でした。

誘ったら快諾してくれました。

私は田舎者なので名古屋は不案内、下調べをして行きました。降車地は「金山駅」でした。

生まれて初めてのコンサートでした。

コンサート会場は、満席でした。

当時大ヒットしていた「なごり雪」の歌が流れます。

「…汽車を待つ君の横で

ぼくは時計を気にしてる…」

この歌い出しに今日の二人が重なりました。

そして、ラストのサビの部分

「去年よりずっと きれいになった

去年よりずっと きれいになった

去年よりずっと きれいになった」

このフレーズは、私の心模様を投影していました。

翌年、彼女はお嫁に行きました。

私にとって「金山駅」は、「名古屋市民会館」と共に甘酸っぱいレモンの味がします。

「市民会館の思い出」

森 喜代美

市民会館にはコンサートや演劇鑑賞で何回も出かけたものです。

とりわけ思い出深いのは、昭和58年?開催された海援隊のライブです。

当時は「金八先生」がテレビで放映されていたこともあり、海援隊も人気絶頂でした。

私は、彼らの歌の抒情的な歌詞やメロディが大好きでした。

当時、私は産休補助の臨時教員をしていました。

不安ながらもたまたま出身校の中学校の校長先生に頼み込まれ、中学校に勤めることになったのです。

ある日、授業のため教室に入ると、何十枚ものはがきをせっせと書いている生徒がいました。

彼女は、お菓子メーカー企画の「海援隊ライブ招待券プレゼント」の応募はがきを書いていたのでした。

「何を書いているの?」と尋ねると、「どうしても当てたいから、いっぱい書いているの。」と。 

「私も海援隊、大好きだからもし、当たったら誘ってね。」と言っていました。

そしたら、後日、「先生、当たったよ。」とうれしそうに報告してくれ、しかも、私を誘ってくれました。

とてもうれしく思いました。

最高のライブ鑑賞となりました。

海援隊のメンバーにもこのエピソードを伝えたくて、手紙を書きました。

会場でスタッフの方にことづけて、海援隊のメンバーに渡していただきました。

また、こんなこともありました。

平成11年、金山にボストン美術館ができた時のことです。

私は、当時、主人とアマチュアの合唱団に参加していました。

その関係のイベントを市民会館で行う予定で準備を進めていました。   

ところが、「ボストン美術館のオープニングイベントを市民会館でやりたいから会場を譲って欲しい」との連絡がありました。

「ボストン美術館のオープニングイベントだから、是非、金山で開催したい」というのです。

代わりに用意されたのがコンサートホールでした。

私たちは、困惑しました。

なぜなら、チケット代が高くなってしまい、チケット売りに苦労することが目に見えていたからです。

しかし、素人がコンサートホールで歌えるなんてことは滅多にないチャンスでもありました。

初めてコンサートホールの舞台に立った時、その音響の良さに感動しました。

さすが、愛知県が誇るコンサートホールです。

とても感動的なコンサートととなり、感慨深い思い出となりました。

「初舞台はビレッジホールで」

田本 雅子

娘の莞奈が日本舞踊に興味を持ったのは、三歳の頃。デパートの京都展で舞妓さんの舞を見て、「かわいい」と思ったのがきっかけです。以来、莞奈は着物を着て、舞妓さん気分。家にいる時は、舞妓さんの舞台ごっこです。おもちゃのマイクを持ち、自己紹介や舞妓さんの説明をします。それから舞を披露。楽しそうです。

縁あって、ギャラリーで舞の披露をさせてもらえることになりました。それまでは、莞奈の思うまま、自由に真似をしていましたが、「お客様をお招きするのだから、きちんとお稽古をしよう」と、夫が提案。莞奈は、京都展で撮影した動画を見て振りを覚えました。案内状を作り、友だちや知り合い、町で出会った人たちに渡すと、ありがたいことに、会場に入りきれないほどのお客様が来てくれました。莞奈は嬉しくて、張り切って披露します。みんなが楽しんでくれて、拍手もたくさんしてくれたので、莞奈も大喜び。五歳になったばかりのことでした。

日本舞踊をもっと知りたいという気持ちが芽生え、観に行ったのが、日本特殊陶業市民会館ビレッジホールで開催された各流舞踊「夢舞台」でした。華やかな舞台に、さまざまな踊りが披露され、きれいだね、かっこいいね、と家族で楽しみました。司会者が「どなたでも参加できますので、次回はぜひ」と言ったので、電話で相談してみることに。莞奈は幼稚園児で、日本舞踊を習っていなかったのです。担当者が丁寧に説明してくださり、大丈夫と励ましてくれたので、出演を決めました。場所は同じくビレッジホールです。

電話や手紙で打合せを重ね、いよいよリハーサル。劇場の裏側に行くのも、夢舞台の方々に会うのも初めてで、どきどきします。音源を渡し、踊りを披露。舞台セットについて口頭で確認しました。

ついに平成二十七年三月二十九日、第三回各流舞踊「夢舞台」名古屋公演の本番当日。莞奈にとって初めての本格的な舞台です。メイクさんに化粧をしてもらい、莞奈のテンションも上がります。知り合いが楽屋に花束を持って応援に来てくれました。嬉しくて、いろいろ話したいところでしたが、すぐに出番です。 

舞台袖に行くと、美しいセットが出来上がるところでした。莞奈は緊張もせず、にこにこです。莞奈が舞台中央でスタンバイしていると、幕が上がりました。披露したのは、舞妓さんの代表的な舞『祇園小唄』です。間奏になるたび、大きな拍手が起こり、最後は盛大な拍手に包まれました。客席で観ていた夫は、今までで一番良かったと感動した様子。莞奈もとても喜んでいました。

その後も、莞奈は動画を見て稽古し、ギャラリーや老人ホーム、イベントなどで披露。しばらくすると、独学に限界を感じるようになり、きちんと踊れるようになりたいと、七歳のとき、日本舞踊を習い始めました。今も先生の指導のもと、稽古に励んでいます。いつか、ビレッジホールで「莞奈の会」を開くことができたらと願っています。

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